伝えられているところによると、かつて地上の至るところで妖精が見かけられた時代があったそうです。それから長い不在を挿んで、ほんのいっとき姿を見せた後、二度と再び見られなくなったのだとも。


 そんな言い伝えも、今ではわずかな歌の中に残るばかりですが、これもそうして生き延びた物語のひとつ。
 今はもういない、とある妖精の物語。
 その妖精は名前をフィニーといいました。自分でそう名付けたのか、それとも他の誰かに付けられたのかは分かりません。もちろん当人も知りませんでした。そういうことを気にするようにはできていなかったのです。
 彼が暮らすのは精霊郷と呼ばれる美しく不思議なところでした。地図で探しても見つかりません。尋常な方法ではたどり着けない場所だったからです。
 昨日と今日、今日と明日の区別もなく、なにもかもが変わらずゆっくりと流れていく、そんな土地でフィニーは他の妖精たちと楽しく暮らしていました。
 そんな彼に仲間たちと違うところがあるとすれば、それはほんの少しだけ、ここの暮らしに退屈している、ということでした。
 いつとも知れないある日のこと、フィニーは精霊郷を統べる大精霊の召し出しを受けました。大精霊の住む館は、精霊郷の中心、神秘的なウルの塔からほど遠くないところにありました。
「なんだろう、大精霊様が僕を呼び出すなんて」
 いくら考えても、思い当たる節はありませんでした。第一、大精霊とは会ったこともないのです。とても偉くて、とても怖い、知っているのはせいぜいそんなことくらいでした。
 大精霊の荘厳な館には、許された者しか入れません。なにか身に覚えのない罰でも下されるんじゃないかと、柄にもなく心細さを感じながら、フィニーは中に入りました。
「妖精よ、お前がフィニーか?」
 尋ねているだけなのに、大精霊の声はまるで叱っているかのようで、フィニーはその小さな体を、一段と小さくして縮み上がりました。
「世界に災いが近付きつつある。それを阻止すべく、ひとりの“女神”を地上に遣わすことにした。お前はそのしもべとなるのだ」
 “女神”!? “地上”!? 耳慣れない言葉に、フィニーの頭は大慌てです。それでもどうやら怒られている訳ではないと分かって一安心。
 大精霊が合図すると、横手から、まるで内から輝きを放っているかのような、純白の姿が進み出ました。その美しさにフィニーはひと目で悟りました。紛れも無い高貴な精霊のひとり、“女神”に間違いありませんでした。
 “女神”は瑠璃の鈴を思わせる声でフィニーに挨拶をしました。その声を聞いただけで、妖精の小さな胸からは不安が跡形もなく消え去り、代わってなんとも言えない誇らしげな気持ちで満たされたのでした。
 この日のことを、フィニーは決して忘れませんでした。
 出発の日が来ました。フィニーは友だちの妖精たちに別れを告げましたが、既に心は地上のことで一杯でした。
「どんなところなんだろう? 精霊郷とは似ているのかな? そこに住んでいるっていう“人間”って、どんなやつらなんだろう?」
 神秘の光に輝く道が開かれ、フィニーは“女神”の後に続いてその中に入りました。住み慣れた精霊郷はあっという間に後ろに消え去り、代わってすぐに待ちに待った地上の光景が姿を現しました。
 でも、それはフィニーが想像していたようなものではありませんでした。
「いつになったら帰れるんだろう」
 小さな口からさらに小さな声で、ぼやきが漏れました。
 フィニーが地上にやってきてから、人間の暦でもう随分長い時間が過ぎていました。
 精霊郷ではほとんど名前しか聞いたことのなかった“地上”での生活。最初は期待に胸をふくらませていたフィニーでしたが、今やすっかり幻滅していました。
 まず驚いたのが“人間”の数の多さでした。不恰好な石造りの建物に、これでもかというほど沢山ひしめく人間たち。見ているだけで息が詰まりそうでした。
 外は外で、精霊郷とは似ても似つかない暗い木々が、生気のない丘の向こうを塗りつぶしていて、しかもその奥には危険な魔物の気配がありました。
 そしてなにより、人間たちの愚かさ加減といったら! なにせ明けても暮れても争いばかり。魔物と争い、互いに争う。ようやく築き上げた家も、次の瞬間には火に包まれる有様。一体、こいつらは何がしたいんだろう?
 “女神”によれば災いの影が少しずつ地上を蝕んでいるとのことでしたが、フィニーにはそのせいだけとは思えませんでした。
「あーあ、精霊郷のみんなは元気かなあ」
 こちらに来てから、フィニーは一度も精霊郷に戻ってはいませんでした。今さらながら、いかに故郷が快適であったのかを思い知らされた気分でした。
 “女神”が災いを断つ剣として見定めたひとりの人間の若者に己の血を与えた時も、フィニーは腹を立てました。“人間”ごときが貴い精霊の、それも“女神”の血を得るだなんて!
 あろうことかフィニーはこの若者と行動を共にすることになったのです。災いを防ぐ、という“女神”の使命のためでしたが、フィニーにしてみれば苦痛以外のなにものでもありませんでした。“女神”の指示にいちいち反発した挙句、しばしば失敗するこの若者のことが、フィニーはどうしても好きにはなれませんでした。
 そうしてまた何年かが過ぎました。精霊の血のお陰で年を取らないあの若者は、根城を移し、フィニーもそれに付いていきました。つかず離れず、時折交わされる皮肉混じりの会話が二人の関係のすべてでした。
 ある日、若者とその仲間たちが騒々しく出かけていきました。魔物が襲ってきた訳でなし、何ごとだろうと思っていると、しばらくして戻って来た若者は、そこで待っていたひとりの女性に何かを渡しました。
「なんだあれ……精霊郷でも見たことあるぞ。確か薬草の一種だ。僕には必要ないものだけど」
 女性は何度も若者に礼を述べると、去っていきました。フィニーはなぜか気になって、その後を追いました。
 行き先は山の裾野の古い建物でした。もちろん妖精のフィニーには分かりませんでしたが、それは修道院でした。女性は修道女だったのです。
 中に入ると、修道女は若者からもらった薬草を煎じ始め、そうして出来上がったものを冷ましてから、また別の部屋へと持っていきました。
 後を追って入ると、修道女は部屋の真中にひとつ置かれた編みカゴにかがみ込んでいました。煎じ汁をカゴの中にいるなにかに与えているようでした。
「猫かなにかかな? よく見えないな。そのために、勝手に出かけたのか、あいつは」
 決め付けてフィニーは、この場にいない若者を非難しました。
 二、三の言葉をかけた後、修道女は離れて出て行きました。入れ替わるようにフィニーは編みカゴをのぞき込みました。すると中から不思議な声が上がりました。今まで聞いたことのない声、鳥とも犬とも、もちろん猫とも違う、なんだかくすぐったい感じのする声でした。
 カゴの中にいたのは、小さな人間の赤ん坊だったのです。でもフィニーはとても驚きました。
「なんだろう、こいつ? こんなの見たことないぞ」
 実はフィニーはこれまで人間といえば、せいぜい子供より上の世代しか見たことがなかったのです。
 くりくりとした大きな目がカゴの中から見上げていました。そしてにっこりと笑いかけてきたのです。その輝かしさと言ったら! 思わずフィニーはつられて微笑んでしまいました。慌てて表情を取り繕ったものの、赤ん坊からは目を離すことができませんでした。

 “女神”のことを思い出し、仕方なしにカゴを離れたのは、それからややあってからのことでした。修道院を後にしても、あの赤ん坊のことはフィニーの頭から消えませんでした。そして彼はこのことをなぜか“女神”に話す気になれませんでした。
 フィニーに秘密ができました。