風が吹いていました。少し冷たさのある、かすかに冬の前触れを告げる風でした。
 風に揺られてなびく草の間に大きな像が立っていました。ミレイの像でした。
 この数十年というもの、世界は激動の時代を過ごしました。破壊の嵐がいたるところで猛威を振るった挙句、世界そのものが作り変えられてしまったのです。この像はその大変動を、後ろに控える修道院と共にくぐり抜けてきたのでした。
 ミレイが思い出の住人となったのは、その大変動よりも前のこと。もう随分、時が流れていました。あのあどけない笑顔を覚えている人もほとんど残ってはいません。それでもミレイの姿は幼い姿のまま、今なおここに留められているのでした。
 像の前に小さな人型が浮かんでいました。フィニーでした。その姿は、妖精にしてもなんだか小さく見えました。それでいて、その表情は妖精というより人間を思わせるものがありました。とても長い間生きてきた人間を思わせるものが。
 フィニーはしばしの間、無言で像の顔を見つめていました。旅人がようやく故郷にたどり着いた、そんな風にも見えました。
 フィニーは戻らない旅に出るつもりでした。ここには最後の別れのために訪れたのです。
 でもどこへ行くというのでしょう? 大変動を経て、精霊郷も地上も、もうかつての姿ではなくなっています。すべてが変わってしまい、もう彼の帰る場所は残されていませんでした。
「それでも人間は生きている」
 かつて精霊郷のウルの塔は人の魂を司っていました。そのウルの塔がなくなっても、人は生まれ、死んでいます。では、ウルの塔なき今、死んだ人間の魂はどこに行くのでしょう?
「もしかしたら、精霊も知らないどこかがあるのかもしれない。大精霊だって世界のすべてを知る訳じゃなかった。僕はそれを探しに行こうと思うんだ」
 フィニーは像に語り掛けました。
 ふと修道院から誰かが出てくるのが見えました。レムという修道女のひとりでした。レムもまたフィニーを、生まれつき妖精を見ることのできる人でした。そして彼女はあのミレイと生き写しだったのです。そんなレムも今では大人となり、後進の指導にあたるようになっていました。
 やってくるレムの姿にフィニーは目を細めました。もしミレイが生きていたら、きっとあんな姿になったに違いない、そんな思いがよぎりました。
 でも、どんなによく似ていても、あれはレム、ミレイではありません。例えレムがミレイの生まれ変わりだったとしても、やはり違うのです。実際、大きくなってからのレムとフィニーはほとんど会っていませんでした。ミレイだけが、幼いまま大人になることのなかったミレイだけが、フィニーにとってのミレイなのでした。
「……僕の知っていたミレイはもういないんだ」
 これまでにもう何度となくつぶやいてきた言葉をフィニーは言いました。
 もう一度、フィニーはミレイの像を見つめました。その昔、その嫌な面ばかり見て、すっかり人間が嫌いになっていたフィニー。その彼に人間の良さを初めて教えてくれたのがミレイでした。彼女との出会いが、フィニーをその後の他の人々との交流へと導いたのです。彼女と会っていなかったら、どんなことになっていたでしょう?
 かつて一緒に過ごした日々のことが思い出されました。カゴの中の無垢な赤ん坊の瞳。無邪気に笑う少女の笑顔。妖精の記憶の中では、それはまるで昨日のことのように、そして何世紀も前のことのように、不動の輝きを放っていました。ただミレイの早すぎる死だけが、そこに影を落としているのでした。どうしようもないと知りつつも、それでもやはり、フィニーはミレイにもう一度会いたいと思わずにはいられませんでした。
「……もう行かなくちゃ」
 伏し目がちに、フィニーは言いました。
「どこに行くことになるのか、まだよく分からないけど、いつかまた会えるよな」
 そこで一旦言葉を切ると、恥ずかしそうに続けました。
「ありがとう、人間を教えてくれて」
 それからフィニーは精一杯、羽根を震わせました。光の粒が舞い上がりました。風に乗って、光が流れました。
「さようなら……」
 もう一度、風が吹くと、もうそこには誰もいませんでした。
 風が光の粒をレムの前に運んだのは、ちょうどその時でした。なにごとか考え事をしていたレムは、それで意識を引き戻されました。そして、一瞬のそのまた一瞬、像の前に浮かぶ小さな光を見たのです。
 なにかしら? そう思った次の瞬間、一陣の風が吹き、まるでそれにかき消されたかのように、光は消え失せてしまいました。
 レムは目をしばたかせました。なにやら光の中に人の形が見えたような気がしたのです。なにかの見間違いかと思いかけたその時、風に乗って、流れてきたものがありました。
 それは小さな羽根でした。レムはそれに見覚えがありました。遠い昔の記憶が甦り、言葉では言い表せないものがこみ上げてきました。理由は分からないものの、なにか大事なものが永遠に失われてしまったのだと、そう悟ったのです。
 レムの目からひと筋の涙が落ちました。他の修道女たちが心配して探しに来るまで、レムはそこに立ち尽くしていました。
 そしてこの日を最後に、妖精が見かけられることはもう二度とありませんでした。
 こうして地上から妖精はいなくなりました。果たしてフィニーが最後の妖精だったのでしょうか? それは分かりません。フィニーが幸せだったのか、それとも不幸だったのかが分からないのと同じくらい、誰にも分からないでしょう。ただ、その後、妖精を見た人がいないのは確かです。
 精霊といい、妖精といい、彼らがどこに行ってしまったのかは、誰も知りません。死んでしまったのだと言う人もいます。そうかもしれません。
 でも私たちは、この世界をどれだけ知っているというのでしょう? 大精霊でさえすべてを知っていた訳ではないのです。私たちが知らないことが一体どれだけあるでしょう? それにおぼろげとは言え、妖精たちの記憶はこうして物語の中に生きています。妖精たち自身もまた、どこかで生きているかもしれません。
 それなら、いつかまた会えると信じましょう。信じ、忘れないでいることで、世界を豊かなままにしておけるのですから。
 でも今はせめて夢の中で出会えることを願いつつ眠るとしましょう。
 ではおやすみなさい。


絵:氏縄 勝之 . 磯 桂子
文:奥田 孝明
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